パソコンが非常に重くて困る。
大学院入試のための願書を、無事に提出したのが
三日前。
出来上がった研究概要と志望理由書を読み直すも、
正直不安。
自分の研究は、自分でやってることだから、
出来るなら楽しくやりたい。好きなことだからね。
自分が何を考えてるのかっていうことに、
昔ほど注意を払わなくなったのかな?
と最近思えている。
描写できなかった感情を描写できるようになってから、
悩む前に言語化してしまうようになったのかもしれない。
ぼーっとすることがどうやらいけないことのようです。
真面目にやるのもいいけど、
真面目な誰かと一緒にくらしてないかぎり、
その人がずっと真面目なのかはわかりません。
もしかしたら一緒に住んでわからない。
人が分かるのは(分かろうとするのは)
大抵ある一部だけで、
それで相手を全体として判断する。
「○○の生まれだから」「血液型○型だから」「○月生まれだから」
「○○座だから」「○○人だから」「職業が○○だから」
「住んでる場所が○○だから」
きりがありませんね。 対象を細かく見ていくと、相手を「定義」する方法が
それこそ殆ど無限にあることに気付きます。
しかしこれらはそれだけで見ている限りは、ずっとその相手の周りを衛星のごとく
くるくる回っていることでしかなくて
あくまで対象にたどり着くことはない (分析の限界)
仮に分析して集めた諸々の条件を「総合」したとしても、
「相手」が出来上がることはないでしょう。
何故なら、こちらが相手を知覚する限りにおいて、すでにそれは主観の色濃い、
恣意的な選択を排除しきれないからです。
「相手」は、「相手」であるから「相手」なんであって、
選択的に排除された何か一つでもあってはいけないことに気付く。
相手を何らかの要素(エレメント)に分割して、
そこから相手の全体をはかろうとすると、必ず失敗に終わるのはそのため。
だけど一般的に、社会ではそれが当たり前に行われている。
それが「制服」だし、たとえば「公務員」だし、もっと言えば「プロスポーツ選手」である。
「アイドル」もそうやね。
たとえば彼らは、それぞれに求められるものが違う。
公務員はある種の真面目さと誠実さ。選手は快活さとそして実績、感動を与えるか否か。
アイドルは顔。身体。イメージ。アドバータイズメント。
人は社会で、自分を切り売りしている。
「ここ! ここを見て!」というところを、
必死に探す。
そして、それは私もそう。
同時にむなしさにも気付く。
無人格生、無名性に惹かれるのは、ここらあたりが理由。
紋様に、意味はあった筈なのに、
今ではほとんど意味が忘れられたものがある。
そんな紋様みたいになりたい。